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鰯くらいの幸福

最寄り駅から続く飲み屋ばかりの横町に、小さな鰯料理屋と中華料理屋がひっそりと並んでいる。
鰯屋は、かたくなに鰯の料理しか出さないのが自慢だ。
つみれ、鍋、刺身、なんかを並べて、酒を出す。
中華料理屋の方は、むかしながらの小さな店で、つまり、レバニラやら、餃子やら、五目中華麺をだし、ビールを飲ませる店である。

この、中華料理屋のレバニラ定食がおいしくて、時々足を運んでいたのだが、あるとき、本日のおすすめメニューの黒板に、なぜかいつも鰯料理の名前が綴ってあることに気がついた。
なるほど、ビールのアテには、餃子も鰯の刺身も同等に美味いと言えるだろうが、はて、なぜこのようなメニューが?マスターは、板前修業でもしていたのかしらん?と思って観察してみると、店の裏通りを使って、店のマダムが小皿やら野菜を隣の鰯屋とやりとりしている。
何度か通って知ったことだが、鰯屋が父親の店、中華屋が息子の店、店の裏通りを行き来するマダムは鰯屋の妻であり、中華屋の母なのであった。

なぜ、僕が今日、この話をするのかというと、夕暮れ、スーパーからの帰り道、目に飛び込んで来た風景が、あんまり鮮やかだったから。

いつものように、駅前を通って、飲み屋ばかりの横町にさしかかった時、目に飛び込んできた、硝子越しの風景。
鰯屋は、暖簾をおろして準備中。
中華屋も、暖簾をおろして準備中。
だが、中華屋の店内は、こうこうと白熱灯に照らされて、赤いテーブルの上にはコンロが灯り、大きな鍋の水炊きから温かい湯気が溢れていた。
テーブルのまわりに戯れる、中華屋と彼のまだ小さな息子達の無音の笑い声、鰯屋は上座に座り、仕事着のまま満足そうに煙草をふかし、鍋の煮えるのを待っている。
仕事の合間のまかない料理、ひと時のささやかな団欒。

僕は、歩く足をとめなかったから、ほんの20秒のできごとだったんだろう。
それでも、マッチ売りの少女が見つけた窓の向こうのご馳走みたいに、その食卓は光り輝いていて、幸福に満ちて見えた。

ふたつの家庭に、瞬間思いを馳せた。
商いは止まらぬ汽車で、小さな飯屋だって、切り盛りするのはそうたやすいことではないはずだ。
酒も出す店で、半分は水商売である。
親子も夫婦も笑顔で鍋の煮えるのを待っているが、例えばこの夫婦だって、男女のすれ違いのひとつふたつでは収まらないような、人生の波風があったかもしれない。
離縁の危機だってあったかもしれない。
父と息子だって、同じ業界ならではの難しさもあったかもしれない。
商いだって家庭だって、いつだって揺れているのだから。
だけど、人生の中の冬の日の一瞬、赤いテーブルの上の鍋の湯気に、本物の幸福が立ち昇る。
湯気の向こうの鰯屋の笑顔には、びっくりするくらい陰りがなかった。
僕は、あんなに美味しそうに煙草を吸う男を見たことが無い。

鰯とか、中華料理とか、そんな素朴なご馳走でいい。
幸福はきっと、そのくらいがちょうどいい。
金の匂いも名声の匂いもしない、酒飲み横町。
決して、歴史に名前を刻まない鰯屋のおやじ。

幸福への轍などない。
ひっそりと、その足で踏みしめろ。
自分だけの足で。
大海原の、名前さえもたない鰯の群れ。
僕は、その中の一匹として、ただ、泳げる限り、せいいっぱい泳ぐことだけが使命なんだろう。

いつか、神様に「おかえり」と言ってもらえるその日まで。

小夏
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