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公演3日目、無事に終了。
ついに、空調の調整が安定する。
暗闇を抜けた気分になる。
皆様、どうぞ安心して観に来てください。
さて、そろそろ載せる写真も尽きてきて、よっぽど自分が好きなのかしらんと思われたら心底辛いが、これは出演者のおりょう(小林亮子)がとってくれた私の写真。

自分では、けして見えることのできない角度から見た自分だ。
最初に見たとき、「これ、鬼だ。」と思った。
実物の平坦な顔よりも、色々と妙に尖って見えるからだろうか?

いや、掘り起こしてみれば、私の心の底に、鬼は確かにいるのだろう。

日々の繰り返しの中で、些細なことであっけなく小さな殺意を持つ瞬間がある。
それは、雑踏の中で、ドンッと人に無遠慮にぶつかられた時とか、歩きタバコの煙をもろに浴びた時とか。横に座ったこの人は、絶対に3日はお風呂に入ってないぞ、うううっ・・。
とか、そんな些細なこと。

その些細な瞬間、その刹那、私は雑踏の中で鬼になる。
牙が生え、角がはえ、はっと我に返り、ぞっとする。
なぜ、そんなにも些細なことで、牙が出るのかと、ぞっとしてそして落胆する。
きっとあんまり繰り返していると、鬼の自分から戻れなくなるんだろう・・。利己から生まれる小さな殺意の積み重ねやら、情念やら、男への恨みやら、それは他の動物には無い感情だ。
鬼という生き物は、そうやって変化(へんげ)で生まれるのではないだろうか。
鬼は、人間の中の一種にしか過ぎない。

室町後期位までは、そこらの村に鬼の姿は実際にうろちょとしてたんじゃないかしらと思う。
彼らが人々と共存していた気がしてならないのだ。

日本人には、鬼もキジも猿も、同列にして命として扱う感性が宿っている。 
八百万の神という精神が、習慣や文化の中にさりげなく溶け込んでいるように。
このへんのプライドは捨てたくない。

今回のクマさんのお話は、そういった意味でも、私はある意味非常に日本的な面があると思っている。
鬼にも、クマにも、私にも、かわらずに夏は巡ってくるのだ。
そうして、見る角度によっては、私は鬼にもクマにも見えるかもしれない。

自分とは違う角度で、世界を見てみること。
これも、演劇の面白みのひとつだと思う。
皆様のご来場を心よりお待ちしています。

・・ちなみに、私は、稽古場で鬼になるということは無い。
と、・・自分では思っているのですが。果たして。

小夏
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