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キャラメル

3日程前から、映画を見ないと眠れない。

原因は定かでない。
たぶん、公演が終わって急にひとりの時間が増えたから、淋しがり屋の性分で人の気配を吸いこんでから床につきたいだけなのだろう。
もしくは、執筆の為のガソリンとして、物語を過剰摂取したいのだろう、と予想をたてたが、どうもピンと来ない。
結局、仕事はスローペースなままなのに、買い出しついでにツタヤに足が向いている。
昔から、壁いっぱいに並ぶタイトルを眺めているのが好きだ。
図書館でも、本屋でも、ツタヤでも。
壁いっぱいに、ぎっしり人生が詰まっていると思うと、それだけでも贅沢な気分になれる。
そうか、私は人生に飢えているのだ。
と、更に予想を立てたがこれもまたピンとは来ず。
結論として至った説は、私にとってDVDで見る映画とは、アルコールに近いものだということだった。
小説は、たぶん一番のめりこむ。三大欲と同じくらいに、貪れる。
そして、私の場合は没頭の結果ちっとも冷静に向かい合えないので、心震える名作であっても、ほげっとした安らぎは得られない。まぁ、そこが好きなとこでもあるんだけど。
芝居も、やっぱりなんだかんだで頭がフル回転するわけで、同業者ゆえの見解も加わってしまい、感動しても同時に摩耗はさけられない。
その点、私にとって映画はいい。
美術館に近い安らぎがある。
いやそれも違うな、絵画は、時に小説よりも雄弁なのだということを思えば、映画は絵画よりももっとずっと気楽なのだ。
そして、無責任に心地良いのだ。
きっと、私の映画への愛が大したことないからなんだと思う。
最愛ではないけど結構好きだわ、と思っている男に無責任に身を任せたら、こんな飄々とした気分になれるものかしら?(絶対にそんなことしないんだけどさ。)
最愛は、時として大変。無責任な愛は、ラクチン。
そうして私は、最愛の演劇の糧にと、無責任に映画を欲する。
とはいっても、イマイチなものを見ると2時間を返せ、って思っちゃうんだけどね。

そんな今日この頃、今夜もひとり人生に酩酊するために映画を漁ったのだった。
このところ外れが多かったのだけど、今夜見た『キャラメル』は、久々にしっかり胸に残る作品だった。もう一度見たい、と素直に思えた。
レバノンの町を舞台にした、あるエステサロンに集う女達の群像劇。ビタースィートな女性賛歌、というと、アラビア版『マグノリアの花たち』を想像する方もいるだろう。
私も最初はそんなつもりで手にとったのだが、個人的には俄然こちらの方が好み。
最大の違いは、心理描写、色彩、映像美、エピソード、など随所に溢れる繊細さだ。
レバノン、という東洋と西洋の両方の影響を受けている土地での生活描写。
そこに生きる女達の吐息には、甘やかさの裏に東洋的な抑圧や恥じらいが確かにあり、アメリカ女性のそれよりも、私の肌に自然に沁みこんで来たのだった。
これは私見だが、この極東日本だって、現代においては東洋と西洋の混在した文化を持つ国と言って間違いないのではないか?
自由なようで不自由、男女平等のようでいてそうではない風土。
その中で、自立した女性であろうとしながらも、時に儚い眼差しを持てあます彼女達。
そんなレバノンの女性達が愛に葛藤する姿に、強く共感したのだった。
説明ではなく状況で語るエピソードはどれも素晴らしい。
色彩と光の美しさ、出しゃばらないけど存在感のあるアラブ風味のサントラも素晴らしい。
大人の女性や、大人の男性に、ひとり静かに見て欲しい映画です。

それにしても、ビール一本よりも安い値段で、こんな酔わせてくれる映画が見られるとは。
ああ、たまらない。
やっぱりこれは、僕にとっては享楽なのだ。

ああ、享楽ついでに好物のアマレットジンジャーが飲みたい。
明日は、ジンジャーエールを買ってこよう。辛いやつ。
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母と、カフェモカと、雪のひとひら、

久しぶりに、母が来訪してくれた。
本番前だったり、色々とバタついていたので、とても心が救われた。
感謝。

春の気配が始まった頃、私は、ミルクフォーマーとチョコレートソースとヘーゼルナッツシロップを買っていた。
大切な人やお客様が来訪したら、カフェモカを作ってあげようと思って。
自分のためには、もう何杯も入れて楽しんでいたけど、ついにおもてなし用に登場する機会が来たのである。
見よう見まねで、泡立ったミルクにチョコレートソースで絵を描いた。
母は、ハートがいいというので、ひとつにはハートを、もうひとつには木を描いた。
絵は、あんまり上手に描けなかったけど、お家カフェモカは甘く香ばしくほろ苦く、還暦を超えて無邪気さを失わない母と、せいいっぱい大人のふりをする私との、この静かな夜に似合っていた。
たくさん、お話をした。
最近の事や、未来のことなどを。

一番嬉しかったのは、部屋で待っていてくれる人がいるということだった。
その、普遍的でシンプルな事実。
書き物をする人間だから、ひとりきりになりたいこともある。
でもやはり、外で戦って、一日の終わりに帰る家に、気心の知れた優しい誰かが居てくれるということは、ある意味、根源的な幸福なのだと実感した。
この類の癒しを感じたのは、実に久々だった。

家庭を持つとかそんな大袈裟な話ではなくて、でもやっぱり人には、帰る場所が必要で、おかえり、という言葉が必要で、あと時々カフェモカも必要だと思う。

おかえり。
ただいま。
いってらっしゃい。

きっと、何べん聞いても飽きない言葉。
一番静かな、愛の言葉。

私が高校生の頃に溺愛した児童書のひとつ、ポール・ギャリコの「雪のひとひら」の中にこんなくだりがある。
「ごくろうさまだった、小さな雪のひとひら。さぁ、ようこそ、お帰り」
翻訳の難しいくだりだったろうと思うが、物語をすべて読めば、この不思議な風合いも理解できると思う。
ようこそ、と、お帰り、の共存の不思議さ。
でもきっと、お帰り、はいつもどこか、ようこそ、を含んでいる。
帰る場所がある幸福は、さかさまから見れば、待ちたい人がいる、という幸福なのだ。

原文は "Well done, Little snowflake. Come home to me now." である。
原文を読むと、ますます翻訳を不思議に思われる方もいるかもしれないが、物語全体を思えば、どちらの台詞も余韻のある言葉だと思う。
児童文学と書いたが、大人にこそぜひ味わっていただきたい、じんわりしみじみと、染みてくる作品だ。

おかえり。
ただいま。
ようこそ、おかえり。
今日も、明日も、何度でも。
大丈夫、何度でも、いってらっしゃい。
大丈夫、だって、必ずまた会えるから。
此処にいるから。

    
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私の男

胸が焼け焦げる程に、恋している男がいる。
その人を、私の男と呼んでいいのであれば、私の男の名前は淳悟、と言う。
淳悟とは、古本屋で出会った。
出会いなんて、どこに転がっているかわからないものである。
一目見たときに、不思議な引力のようなものを感じ、私から誘った。
彼を手にいれてからは、向き合うたびにどんどん好きになった。
あ、こういう好きは怖いな、と思った時にはもう手遅れだった。
中毒患者のようにきりがない衝動。
向き合うだけで、心が痺れたようになり、瞬きも忘れ、むさぼるように、日々ただ彼のことを思った。
彼のひどく痩せた背中、指の間でくゆらせている煙草の煙、もてあました手足。冷酷な目。
どれも、けして得意なものではなかったはずなのに、彼と出会ってからは、それらがひとつでも欠けてしまったら、人生はたちまち色彩を失ってしまうだろう、と思うようになった。

だが、私が彼の手に触れることは、永遠にない。

小説の登場人物はいつだって、読んだ本人の頭の中だけを住処とし、胸を蝕み、肌には指一本触れずにおいて、湿り気のある溜息をこぼさせる。

そんな風にして、私は久しぶりに、この紙とペンで作られた男に、心底まいってしまった。

桜庭一樹・著「私の男」。自分の中で、久々に強い中毒性を感じた作品だ。
表紙と裏表紙の間で、淳悟は生きている。
作品に溺れる喜び。
ああ、私も、誰かを溺れさせることのできるような作品が書きたい。
誰かを溺れさせることのできるような、女になりたい。
そして、現実世界の男には、残りの人生、決して溺れたりなんかするもんかと、抵抗むなしくも苦し紛れに吐き捨ててみる。

心乱しながらも、実はまだ最後のページにはたどり着いていない。
残りのページを読み切るのが、 さみしい。
想いをコクるまでが、一番輝かしい。

小夏

profile * 映画・本・音楽 * 02:40 * comments(0) * trackbacks(0)

Ave Maria

Ave Maria というタイトルの曲はいくつもあるが、私が初めて聞いたのは、Schubert(シューベルト)のものだった。 
小学生の頃だったと思う。

子供心にとても綺麗な曲だと思った。
でも、思春期を迎える頃になるとGounod(グノー)のAve Maria の方が俄然好きだと思うようになった。

Gounodのは、どこか冷たく、青く透明な気がした。そして、哀愁が強い気がした。
私は母に「グノーの方がずっとクールで、シューベルトの方は野暮ったい」と生意気なトーンで言ったように記憶している。
確か、母は、シューベルトの曲のメロディの優しさについて語り、好きと言っていたような気がする。定かではないが。

とにかく当時は、Schubertのは、ちょっと温か過ぎるし、本当に救いを求める人には、もっと悲しみを共有できるヒンヤリした旋律が必要なのではないかと思っていた。

それが、ここ最近になって、私は俄然、SchubertのAve Maria を好むようになってきたのだ・・。 
理由はわからない。または、理由なんてないのかもしれない。

ただ、絶望の夜に必要なのは、哀愁の旋律ではなく、光溢れる旋律なのではないか、と感じるようになったのかもしれない。

大人になればなる程、苦労した人程、いつでも笑っているように思う。 

日々の些細なことで、スグ顔をしかめてしまう自分の懐のなさを、今日も悔やむ。

微笑んでいたい。

誰かの為ではなく、人にどう思われるかではなく、男の為でもなく、自分の為に。

微笑んでいたい。

Ave Maria-Gounod(グノー)

Ave Maria-Schubert(シューベルト)

小夏
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QUE SERA SERA

本日はBGMが、中村中からDORIS DAYに移行となりました。 
DORIS DAY、女優なのに歌手活動も素晴らしいです。
歌のうまい女優、大好物です。
・・にしても、この時代の歌手達はホント素敵。
現代の歌手でも、アコギ一本、ピアノ一台、でも戦える人が好きなのだが、 この時代の歌手達はアナログな環境の中で、純粋に歌の力だけで心を掴みに来る。

日本で言ったら、当時一番のスターは笠置シズ子だが、笠置シズ子の突き抜けた明るさも、DORIS DAYとは違う意味ですごい。 
歌いながら踊ったのは、日本では笠置シズ子が初めてなんだそうで・・。 見た目はまるで実写版サザエさんのようなのだが、歌いだすと小さな痩せた体から溢れるエネルギー。
その上、英語曲のカバーのリズム感と発音の良さは、今聞いても、かなり快感なのだ。

あー・・、カラオケ行きたいなぁ・・。
・・諸事情により、今日は、このあたりで。
QUE SERA SERAって言っても、匙を投げてるわけではありませんよ。

小夏
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